野球は近鉄


信頼して使う

1997年のペナントレースも終わりに近づきつつある。終わってみると、尤もな結果のように思ってしまうが、ペナントレースが始まる前の予想と見比べてみるとあまりの違いに驚く。私の予想では優勝は「パ」が「オリックス」、「セ」は「中日」とみていた。ところが、「オリックス」は2位と健闘したが、「中日」は最下位に沈んだままだ。「中日」について言えば、今中が本格的に復帰しなかったことが最大の誤算だったが、山崎、大豊の二人がここまで打てなくなるとは思いもしなかった。球場が広くなったことも大きな要因であるが、打順の変更、スタメン落ちなど、その起用法の一貫性のなさは目を覆うものがあった。野球選手といえども人間、「信頼して使っているぞ」ということを感じて初めて実力が発揮できるというものだろう。そういう意味では、小早川や馬場、伊東などのベテランを勝負どころで使ったヤクルトと、松井、大友、両高木(大成と浩之)などの若手を気長に使った西武が優勝したのは、当然の帰結といえるかもしれない。
ところで、我が近鉄は惜しくも優勝は逃したものの3位は大健闘。私の予想では「千葉ロッテ」と最下位争いをするとふんでいたのだから、うれしい誤算である。正直言って、今でもチーム力は最下位の千葉ロッテとあまり変わらないと思っている。では、近鉄は千葉ロッテとどこが違ったのか?ペナントレースが始まる前の千葉ロッテの目玉は小坂と清水だった。小坂は使い切ったが、清水は使い切れなかった。強肩だがあの打率ではと言われた。そういえば近鉄にも同じような選手が居る。そう、的山である。この選手もさっぱり打てない。しかし、近鉄はこの選手を使った。時々、古久保が出てきたが(彼の打撃は珍しく絶好調だったにもかかわらず)最後まで正捕手は的山だった。この信頼感が的山をなんとか一人前の選手に育てたような気がする。このベンチの腹のすえようの違いが近鉄と千葉ロッテを分けたように思うがどうだろうか。

(1977.10.9)


石井の置き土産

石井の問題は、読売とのトレードということで一件落着した。しかし、この問題については我々ファンの立場から見てもいろいろと感じることがあった。
まず、スポーツ選手というのはいかに非常識かということ。自分が雇用されている会社が赤字であるのに、給料を上げてくれなどと平気で言える人種はほかの世界ではまずいないだろう。特に石井の場合、去年一試合にも出ていないのだから最低賃金だといわれても仕方ないぐらいにもかかわらず、5千万プラス出来高という評価は高い評価だと考える。現実にオリックスの佐藤投手はそういう契約をしている。感情的なもつれがあったのだろうが、「プレーできる自信がないのかな?」と感じさせる態度だった。勝負強く豪快な石井のバッティングを愛している身としては、「バット」で近鉄フロントを見返してほしかった。
そう考えると、球団経営というのは一種の「ボランティア」になりつつあることに気づく。日本一になったオリックスでさえ赤字だという。もちろん、企業のイメージアップなど付加的な効果はあるにしても、最近の年俸の高騰を見ると、とても収益をあげることなど無理である。しかし、年俸の高い選手ばかりを集めた球団がそのまま強い球団ではないことは、証明されているし、そこが野球の面白いところだ。強い球団を作っても、面白い試合をしなければ、すぐにファンは離れていってしまうだろう。近鉄のみならず、球団経営者は「夢を売る」ビジネスのあり方について、真剣に考え直す時期が来ているのかもしれない。
そういう話とは別に、石井が清原を押しのけ一塁を守り、石毛が、吉岡が活躍する姿を想像してほくそえんでいるのだから私も相当おめでたい。

(1997.2.2)


「ベストナイン」で楽しむ?

大  石
新  井
土  井
マニエル
石  井
小  玉
栗  橋
梨  田
矢  浦
鈴木 啓
もう慣れっこになったとはいえ、近鉄ファンの心は、石井の放出問題で真っ暗である。その問題については、落ち着いてから書くとして、今回は、「近鉄球団史上最強のチーム」を組んで楽しもうと思う。
一般的には、こんな風になるのかと思う。どうだ、バランスのとれたすごいチームではないか。近鉄もまんざら捨てた存在ではないと今更ながら思う。
監督?それはもちろん「関根潤三」。今からでも実現してほしい。
しかし、こういう一般的なベストメンバーというのは何か味気ないので最後に私好みの選手によるラインナップを挙げてみる。他には、ピッチャーでは、久保征弘、佐々木宏一郎、板東里視、村田辰美などに入ってもらう。抑えは山口哲治。内野では、往年の鈴木武、高木喬の両名、外野では島本講平、淡口憲治などに入ってもらう。監督はもちろん切り込み隊長の平野光泰。こんなチームなら一年に130敗しても、一試合残らず応援しに行くのだが。
小  川
安  井
永  淵
ブルーム
山本 和
羽  田
伊  勢
佐藤 竹
山  下
神  部

(1996.12.22)


そんなにしてまで勝ちたいか?

なんだかんだと大騒ぎして、清原が読売(このコーナーでは「巨人」という名前は使わない)に入団した。そのとばっちり?で世紀の大打者、落合は自由契約の身となった。当人たちの思いはともかく、読売の落合の扱い方は野球を愛する人の感覚とはまったくかけ離れているように思える。そういえば、一昔前も、同じように張本という大打者を使い捨てたのも読売の同じ監督だった。
FA制度が導入されてから、金があれば優秀な選手を引き抜くことがよりいっそう簡単にできるようになった。それだけに使い捨てられる選手も増えてくるように思う。自分の価値を自分がしっかりと知っていなければならないと言うことだろう。
それにしても、近鉄ファンの私がわからないのは、その「常勝球団」という意識である。「勝ったり負けたり」するから面白いのであり、「絶対勝つ」球団なんて応援のやりがいがないと思うのだが。その選手につぎ込む金がファンと無縁なのならいいかもしれない。しかし、その大半は入場料となってファンがかぶるのだ。本当に野球好きなら負け試合でもいっぱいみれた方がいいと思うのだがどうだろう。
まあ、「そんなにしてまで、勝ちたいか?」とテレビの前で呟いたのは、私だけではないはずだ。

(1996.12.8)


近鉄ファンの心根(こころね)

私が近鉄バッファローズのファンになったのは、昭和42、3年頃、ずっと主軸打者だった小玉監督が「八百長疑惑」に巻き込まれて阪神に移籍し、三原監督になった頃からだから、もう30年近く前になる。手元の資料を見ると案外それからは最下位にはなっていないが、私の頭の中には「常に最下位」というイメージが強い。実際、それまでの成績を見ると、昭和25年の球団創設から4年連続7位、昭和32年から6年連続6位、39年から4年連続6位というすさまじさで、初めてAクラスになったのは、昭和44年という有様だ。この年は「藤井寺決戦」と呼ばれた阪急との激しい優勝争いがあった年で近鉄ファンには忘れられない年になるのだが、そんなに弱い近鉄のファンは今以上に珍しかった。最初は「地元香川出身の三原が監督をしている」、「豪速球投手鈴木がかっこいい」という他愛もない理由で好きになったチームなのだが、その後の近鉄の戦いぶりと私の人生が妙な関係を持ってくるのだから怖い。
前述の「藤井寺決戦」、初優勝時の「江夏の21球」、昭和63年の「対ロッテ最終戦」など、くどくどと説明するまでもなく、近鉄というチームは「負けることがドラマになる」宿命を持ったチームである。そして、そのことが私の精神に与えた影響は計り知れない。普通の野球ファンのように「勝てば良いよ」とはどうしても思えないのである。勝敗そのものよりも勝ち方、負け方が気になって仕方ない。さらに言えば「かっこいい負け」を「かっこいい勝ち」よりもかっこよく思ってしまうのだ。これを読んでいる近鉄ファンの方、そんなことはないですか?
かっこわるくても、勝利に執着し続けていかないと近鉄にも私にも明日はないのである。

(1996.10.8)


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