密   封


 夢の中でまで時計の針に追われて、独特な格好に歪んだ数式が現れてきた。その次にきた朝の事だ。朝になっても新月の夜の光すら感じられなかった。「ふり」だけでも勉強している方が、余程楽に時間が経っていくような気がして、起きようとしたのだった。
 何かの本を読んでから、安眠できるように枕を抱え込んで寝ていた。そのせいか、体が冷えることはなくなったが体中変な音を立てて背伸びをしないことには一日が始まらなくなっていた。
 さて、今日も背伸び。……うまくいかないぞ。……固まってしまったのかな。……まあいいや。このまま下に降りよう。
 ひどく乾いた異様な音をたてて僕の体は床に落ちたが、姿勢は一向に崩れなかったし、布団は脱げたが「寒さ」は一向に感じず、むしろ暑いぐらいだった。一生懸命右手の中指の先に神経を集中して力を込めようとしてみたが、動かないばかりかそれがどこにあるのかさえ分からなくなっている。
―――もうそろそろ時計の針に屈服してやるか。
 平常心を取り戻そうと、いつもの口癖を言ったつもりだったのだが、自分の鼓膜、どこにあるのだろう、にはこういう言葉が入ってきた。
―――もうそろそろカレンダーを誘惑してやるか。
 それに驚いた拍子に僕の体はますます固くなるようだった。
―――へえ、こりゃこっけいだ。
 父親の声よりひとまわり甲高い聴きなれない声のほうを振り返ると、どうやったのだろう……眼など、いや頭すらどうなっているのか分からなくなっていたのに、そこには僕が長い間愛用している、本当に木と釘しか使っていないおまけに背もたれもなく「座れるというぐらいしかとりえのない」椅子があった。
―――おまえさん、分かっているのかい、自分の格好を。椅子になってるんだぜ、椅子に。俺そっくりのな。
 その言葉で僕は二つの事を知ることが出来た。一つめはその声がまさしくその壊れかけた椅子の声だということ、二つめは僕の体は椅子の形をしているということだ。一つめを納得するためには二つめを納得する必要があるのだが……。
―――どうだい、椅子になった気分は。そりゃ、人間とは少し違うぜ。例えば、……人間は眼でしか物を見れないし、鼻でしか匂いをかげない。低級だね、椅子は違うぜ。全身を使うんだ。全身が眼であり、耳でもあり、鼻でもあるって訳だ。面白いだろ、まあ、早く人間だったことは忘れるんだな。
―――なぜこんなことになったのだろう。
 全身にあるらしい口から独り言のつもりで言ったのだが、それもまたあの椅子の奴に聞き咎められた。
―――おい、そんな弱気でどうする。俺はおまえのことを良く知っているから。それにしてもまあ頼みもしないのにいろいろ聞かせてくれたな。おかげで退屈しないですんだぜ。で……やっぱりおまえが椅子になったのは喜ぶべきことだと思うがね。……おまえの為にな。今のおまえに必要な、いや、必要だったのは「自由」だったはずだ。したくもないことをしなければならないのだからな。まあ、椅子になってみれば分かるけども、おまえのやっている、いや、やってきたことは無駄なことばかりだったんだぜ。せっかく食い物を口から入れたのに尻から打してしまうんだからな。それはおまえも気付き始めていたことな訳なんだが。もう、おまえは椅子になってしまったのだから、椅子が大学にはいれるか?もう、何もかもから解放されたんだ。どうだ、いいだろう。へへへ……
―――やたらうるさくいうなよ、椅子のくせして。
―――椅子のくせしてはないだろ。まあ椅子になったという意味では先輩なのだから。ちょっとは尊敬してもらいたいね。
 彼に言われるまでもなく、受験勉強をし始めてから毎晩彼に話しかけるのが習慣になっていた。同級生には弱音は吐けなかった。彼……すなわち、僕の尻の下にあった椅子を羨んだことだけは確かなことだった。こんな生活、自分にまで規制される生活、をしなくてもいいとという単純な理由だけで。じっと座られてさえいれば時が過ぎていく存在だ。「永遠」という概念を操りながら。
 そうなのだ。僕はもっと喜ぶべきなのかもしれない。もう、試験の事を考えなくてもよくなったのだから。時間の流れを区切るものは何もなくなったのだから。もう、何もしなくていいんだ。
―――どうなんですか。椅子の生活というのは、楽しいですか?
 もっとこの生活を楽しくしたくなった僕は、出来るだけ明るく高い声を出して、彼に聞いてみた。木になってしまったらしい皮膚の感覚も落ち着いてきたが、やはり人間だったときより随分鈍感になっていた。
―――そうさな、俺も人間だったときは。工員だったんだ。椅子を作る工場のさ。よく働いたものだよ、働けば働くほど金が儲るものでね。自分という時計に追われて、分かるだろ、おまえみたいなものさ。まあ、だけどそんな縁もあってか椅子になれてからはのんびりさ。することといえば、そう自分の哲学を確立することぐらいだな。これもまた気楽なもんだ。どういう結論が出たところで、行動する責任なんてどこにもないんだからね。まあ、明日燃やされる可能性もあるわけだけど、だいたい時間なんてたっぷりあるんだから。ゆっくり、本当にゆっくり自分の好きなことをすればいいのさ。何もしなくてもいいし、誰からも何も言われないんだぞ。極楽じゃないか。
―――今、何時頃かな。
―――まだそんなことに未練をもっているのか。
―――いや、とんでもない。
 彼はなかなか話の筋をそらしてくれない。もっとゆっくり初めて経験する「幸福」の味を噛みしめてみたいのに。
―――ただなんとなく……
―――なんとなく、なんだ。
―――時計はどこだったかな。
―――ある訳ないじゃないか。
―――あの机の上、あれ……
―――ないだろう。あんなものが見えるのは人間だけさ。そのかわり俺たちにはあんな面白いものがみえるぜ。あのカレンダー見てみな。
 カレンダーの上ではめちゃくちゃになった数字がいくつかの群に分かれて争っている。特に「5」と「7」がお互いに引っかけ合って身動きが取れなくなっているのはおもしろい。
―――あれが人間からみるとつまらない大きな時計に見えるんだから。あきれかえっちゃうね。そもそも人間というのは有機物だ有機物だって威張っているが、もとをただせば、……いや、もっとも俺だって有機物だがね。……人間が駄目だっていうのはそんなことじゃないんだな。分かるか。……おまえみたいな新米には分かるわけがないよな。……それはな、こういう事なんだ。……あのう、人間は頭でしかものを考えられない。だから、なんていうか、あられとせんべいの区別もつかなきゃ、タクシーとハイヤーの区別もつかないんだよ。分かるか。……
 僕の耳は、彼の声よりも、ゆっくり階段を登ってくる足音の方に向けられていた。どの物音もそうなのかもしれないが、人間でいたときよりも心臓に直接突き刺さってくるように響いてくる。
 誰だろう。今日は日曜日の筈なのだが、そろそろ母が起こしにきても不思議ではない。
 しかし、僕がカレンダーの方に注意を向けている隙を狙うように入ってきたのは、ハイティーンなのだが、そういう言葉がもっとも似合わないタイプの貧相な男だった。
 「男」は部屋にはいるとすぐ書棚から本を取り出し、机の上に放り投げると、緩慢な動きで机に近付き、「無礼にも」僕の上に尻を落ち着けた。
―――こりゃ、滑稽だ。
 また、彼の声。
―――何が?
 なるべく何気なく聞き返す。
―――だってそうじゃないか。「おまえ」が「おまえ」に座っている訳だ。この不思議な円環、閉じられた……
―――「僕」は「僕」じゃないか。この椅子が「僕」じゃないか。変なことを言わないでくれよ。僕は椅子、人間じゃない。……人間じゃないんだ、僕は。……
―――ああ、分かった、分かったよ。しかしな……、じゃ、「これ」は何だ。おまえの上にどっかり腰を落ち着けているのは、いやに落ち着いているぜ、おまえでなくて誰がこの部屋であんな真似ができるんだ。……そうだろ。そりゃおまえからみれば、いや俺からみてもまるっきりおまえとは違うよ。だけどな、そんなこと人間には分からないんだ。
―――なぜ、僕が二人も?
―――「なぜ」って聞き方は人間のやることみたいで気にくわないな。……まあ、簡単に言うとありゃ人間の屑……いや、垢だ。人間にとってはどれが身でどれが垢か分からないし、分かろうともしない。しかし、おまえや俺にとっては大切なことなんだ。……感謝しなければならないな。「垢」がそうやって活躍してくれるおかげでおまえもこうやってのんびりできるんだからな。

 彼の言葉通り、あれから三日間、「僕の垢」氏は四六時中机に向かっていた。僕はただ座られてさえいればよかった。しかし、僕にとって、この二十才にすらなれなかった幼過ぎる僕にとってこの時間は残酷だった。椅子になった当初、仄かに見えた灯の正体は何だったのか。死神の持つ蝋燭だったのか、それとも幽霊船のカンテラだったのか。素晴らしい快楽への片道切符だと思ったのは錯覚だったのか。
 「僕の垢」氏を見ていると、やはり本当の「僕」は彼だと思う。いや、思いたい。小さいときからの僕の夢、平凡だったはずだ、大学へ行くこと、安定した職に就くことくらいだったのに、その夢は全部彼のものになりそうなのだ。あの日以後、彼は僕以上に僕らしく振舞っていた。勉強の能率の良さは誰がみても驚くだろう。話し方やものごしもとても素直、率直で立派なものだ。小さいとき、といってもそんなに前の事ではないが、彼のような人になりたいと念じたものだった。別れてしまうにはあまりにも惜しすぎた。
 そりゃ、彼、あの古ぼけ過ぎて焼かれることになった椅子の言うように「人間」というものに未練を持ちすぎているのかもしれないが、じゃ、いまさらどんな夢を持てというのだ。椅子の夢……見当がつかない。そりゃ平凡な椅子であればそれでいいのだが。夢というにはあまりにも暗くて重い。それが椅子というものだといわれればしかたないが。別に人間のままいられたところで夢などかなえられる訳などないのだから。……それでもしがみつくところにささやかな喜びがあったのではなかったのか。未来が永遠に続いているというのは未来がないのと同じだ。
 それより僕がやりきれないのは、こともあろうに椅子になってしまったということなのだ。僕の仲間、こういう感覚が分かるようになるとは思わなかったが、の中には単なる棍棒や瓶、紐などになった人もいるという。羨ましい話だ。紐や棍棒ならいろんなことに使ってくれるかもしれないものを。
 椅子、つまらなさすぎる。棒がいくつかより集まったばっかりに座ることにしか役立たないものになってしまって。もっとも人間どもに想像力がなさすぎるのだが。椅子の上でキャベツを千切りにしようが、逆さまにして便器にしようが構わないのだが。
 それにしてもそれじゃ人間でなくなった甲斐がないというものだ。机と五センチ二ミリ離れた所にいつも置かれて、決まった時間に五八キログラムの重みを支える。これじゃ、人間そっくり、いや、人間以上に「人間的」に社会に「参加」し、「構築」していることになるじゃないか。僕の「非人間性」はこの乾ききった有機物の中に密封されてしまった。
 いま、入学試験を終えて帰ってきた「僕の垢」氏は、ベッドの上に寝ころんで足を組み、「××コミック」を読んでいる。束の間の「解放」を味わっているつもりなのか、顔面から微笑みをいっぱいこぼしている。僕は、この日をずっと待ち望んでいたのではなかったのか、何かに「束縛」されるための「解放」、楽しそうじゃないか。
 もう、泣き言はいうまい。そういうことに気付きながら僕に幸せを語ってくれた先輩のためにも。「仲間」はふえてきている。もっとも「人間的」な「物質」として。時間はたっぷりある。「物質性回復」の方法でも考えてみよう。それがつまらない夢だとしても。
 手始めに、僕は「僕の垢」氏の所有する鉛筆と知り合った。この文章は僕がその鉛筆に書かせている。つまり、人間からみると、「僕の垢」氏が書いたことになる訳だ。
 信じたくない人は、この文章は「僕の垢」氏のつまらない道楽の産物と思ってくれてもいい。しかし、それはとりもなおさず、よかれあしかれ、あなたが「垢」にすぎないことを物語っている。それだけは言っておく。

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