小説第2弾・羊水の叫び

○ オフィス街
  両手のない嬰児(カズミ)、高層ビルか
  ら出てくるYシャツ姿が目立つサラリー
  マンたちを空中から見つめている。
  カズミは、体つきは生まれたての嬰児の
  ままだが、顔だけは、しっかりした青年
  のものになっている。両腕は、肩関節か
  ら先がない。少し大きめの白帷子を着て
  いる。その帷子には袖がない。

○ 春男の会社・会議室
  会議室で十人ほどの重役達を前に、春男
  が資料を手にしながら真剣に説明をして
  いる。
春男「日本の食管法の改正を待たずして、も
 はや、米市場は国際的な巨大マーケットで
 あります。お配りいたしました資料の2ペ
 ージの表をみていただければ一目瞭然です
 が……」
春男のN「カズミに気づく前は、大きなプロ
 ジェクトを任され、それが成功すると出世
 の道も夢ではなくなる。そんなことばかり
 考えていた」

○ 春男の家・玄関(深夜)
  暗い玄関にチャイムの音。
  友子、慌ててパジャマ姿のまま玄関を開
  ける。
  春男、つかれた表情でゆっくりと入って
  くる。
  春男、後ろ手に戸を閉めると寝室に向か
  う。
  友子、春男を追いかける。
友子「あなた、いつも言ってるでしょ。遅く
 なるときは一本連絡を入れてくださいって。
 帰らないんだと思ってたらこの間みたいに
 会社からまっすぐ帰ったりするんだから。
 家で待ってる方の身にもなってくださいよ
 ……」
  春男、友子の声を無視してベッドに横に
  なる。
春男のN「十年以上になる友子との結婚生活
 にも、子宝には恵まれなかったが、これと
 いった不満はなかった」

○ 弁当屋
  オフィス街のビルの谷間にある小さな弁
  当屋。
  若いOLにはさまれて春男が注文の番を
  待っている。
春男のN「なぜか、その日は、昼休みだけで
 も会社の連中から離れてゆっくり休みたかっ
 た」

○ 公園
  オフィス街の中にある狭い公園。
  ぎっしりと並べられたベンチでは、OL、
  アベックなどが弁当を食べている。
  春男、隅の方のベンチで一人で弁当を食
  べている。
  春男、向かいのベンチで若い主婦が赤ん
  坊をあやしているのを微笑みながら見て
  いる。
  春男がじっと見ていると、抱かれている
  赤ん坊が空にすっと浮かんでいく。
  春男がよくみると、赤ん坊はちゃんと主
  婦の腕の中にいる。
  ただ、その上の空中に腕のないカズミが
  春男の方を向いて笑っている。
  春男、その様子をしばらくじっと見てい
  たが、カズミに両手がないのを見て急に
  驚く。
  春男、食べかけの弁当をそのままベンチ
  の脇の屑篭に投げ捨てて、走り去る。
  カズミ、春男をゆっくり追いかける。
  春男、振り返り、カズミの姿をみかける
  と、急いで逃げる。

○ 春男の会社前
  春男、ビルに走り込む。
  奇異な眼でみる社員達。
  その後をゆっくりと追いかけるカズミ。

○ 春男のオフィス
  机に座って電卓をたたいている春男、な
  んども入力ミスをする。
  オフィスの部屋の上の隅からカズミが嬉
  しそうに春男の方を見ている。
  春男、カズミの方を見て電卓を机にたた
  きつける。
  周りの人たち、一斉に春男の方を見る。
  隣の机の若い男子社員、思い切って春男
  に言葉をかける。
若い社員「岡林さん、どうしたのですか?」
春男「(ふと我にかえり)いや、なんでもな
 いんだ」
若い社員「なんでもない訳ないじゃないです
 か。何時間同じ計算やってるんですか。そ
 れにいまも汗びっしょりですよ。お身体、
 悪いんじゃないですか?」
  春男、思わず手で汗を拭う。
  若い社員、素早くハンカチを差し出す。
  春男、受け取って汗を拭う。
  汗でベタベタになってしまうハンカチ。

○ 春男の家の前
  郊外の一軒家。
  疲れはてた表情の春男、玄関のチャイム
  を押す。
  カズミ、遅れて春男について飛んでいる。

○ 春男の家・寝室
  春男、ベッドの中でまんじりともせず中
  空の一点を見つめている。
  横のベッドでは妻の友子がだらしない格
  好で眠っている。
  カズミ、春男のベッドの上で空中に浮い
  ている。
春男のN「その頃はこの赤ん坊は幻覚に違い
 ないと思っていた」
  春男、横に向き、眼を閉じる。
  カズミ、春男の横に降りて、春男に抱か
  れるように眠る。

○ 竹井の家・応接室
  シャンデリアのある十畳ほどの部屋。
  他の家具は落ち着いた雰囲気のもの。
  大きなソファにゆったりと座っている竹
  井正雄。
  向かい合って座っている春男は落ち着か
  ない。
竹井「幻覚が見えるって言ったって、心配な
 いさ。他のことは変わらないんだろう?強
 迫的な行動、うーん、何かに急かされてい
 るような感じとか、つまらないものが恐い
 とか、そんなことはないんだろ?」
春男「ああ、そういうことはないんだ」
竹井「それなら、何の心配もないさ。専門家
 の俺が言うんだから間違いない。精神病の
 奴がそんな眼つきしてる訳ないじゃないか」
春男「そうなのかな」
竹井「そうさ、早くガキ作れよ。かっこつけ
 てないで。自分のガキはかわいいぞ。そう
 すりゃそんな赤ん坊たちどころに消えてく
 れるよ」
春男「おまえがそんなこと言うとはな」
竹井「もう、いい年なんだから」
春男「本当に心配ないのか?」
竹井「ああ、それは太鼓判を押すよ」
春男「そうか……」
  春男、しばらく考え込んでいたが、竹井
  の方に向いて微笑む。
春男「それはそうと、おまえ、この頃大活躍
 じゃないか」
竹井「何の話さ、精神障害者の権利擁護を考
 える一万人集会か?」
春男「ああ」
竹井「まあ、昔のからみでね。あがめたてま
 つられてるだけだよ」
春男「だけど、偉いよ。そうやって、昔の信
 念を貫いてるんだから」
竹井「進歩がないって言いたいのか?まあそ
 うだけどさ。ハハハハ……」
春男「俺なんか昔のことは忘れちまったよ」
竹井「ほんとうにそうならいいんだ。(声を
 低くして)ずっと前から気になってたんだ
 けど、おまえまだ靖子のことが忘れられな
 いんじゃないのかと思ってたんだ。忘れな
 いとだめだぞ。靖子のことは割り切って、
 高崎常務の娘と結婚したんじゃないのか?」
春男「心配するなよ。もう昔の話さ」
竹井「それならいいんだけど。靖子に子供を
 おろさせたって言うからさ。お前、まさか
 あの薬を飲ませたんじゃないんだろうな。
 だったら俺にも責任があることだから」
春男「関係ないよ」
竹井「悪い、悪い。昔の話だよな」
春男「じゃ、忙しいところ悪かったな」
  春男、急に落ち着かない様子になり席を
  たつ。
竹井「ああ、またいつでも来てくれ」

○ 住宅地の路地
  元気なく家に戻る春男。
春男のN「そうなんだ、割り切って、友子と
 結婚したんだ。この生活を大切にしないと
 いけないと必死に自分に言い聞かせていた」
  カズミ、春男の後を追う。

○ 春男の家
  十畳以上ある広いダイニングキッチン。
  白を基調にコーディネートされたシステ
  ムキッチンとテーブル。
  春男、友子と向かい合って、夕飯を食べ
  ている。
春男「今度の日曜日、映画でも見に行こうか
 ?」
友子「無理しなくてもいいわよ、仕事、忙し
 いんでしょ。それに見たい映画やってない
 し」
春男「結婚する前はよく行ったじゃないか。
 それで食事もして帰ろう」
友子「ええ、そりゃうれしいけど」
春男「じゃいいじゃないか」
友子「それにしてもどうしたの?急に。なん
 か気持ち悪いわね」
春男「このあいだ、行ってきたんだ。タペル
 ージュっていう店。ほら、学生時代によく
 行ったないか。あのままだったんだ。なつ
 かしくって。あそこに行こう」

○ 映画館の前
  春男と友子、繁華街の古い映画館から出
  てくる。
  映画館の屋根の上で二人が出てくるのを
  待っているカズミ。

○ レストラン
  タペルージュという看板。
  店内中に古めかしい装飾が施されている。
  春男と友子、食事をとっている。
  カズミ、天井に張り付くような形で二人
  を見ている。
  カズミの表情がだんだん険しくなる。
  そんなカズミに春男は気がつかない。
友子「ほんと、懐かしい。あの頃と何も変わっ
 てないのね」
春男「ああ」
友子「よく来るの?このあたり」
春男「そうでもないよ。この間、たまたま来
 たら何も変わってないんで。驚いちゃって」
友子「学生時代のあなたって少し謎めいたと
 ころがあって。2つの年齢の違いって大き
 く感じるものよね。それに私たちがキャー
 キャー騒いでるのを冷たい眼で見てばっか
 りで。一向に相手にしてくれなかった。そ
 んなあなたを振り向かせようと意地になっ
 てたのよ、私。今から思うとあなたの作戦
 にまんまと引っかかったのかもね。高等戦
 術に」
春男「変な言い方するなよ」
友子「変な言い方じゃないでしょ。あの頃の
 私は天狗になっていたから。世の中の男は
 全員私の方を振り向くはずだってね。だか
 らいちころよ」
春男「そんなんじゃないって。ほんとうに」
友子「もう、十年以上になるのよ。白状しな
 さいよ」
春男「まいったな」
友子「ほら、白状した」
  無邪気に笑う友子を春男が無表情に見つ
  める。
  友子の肩口にカズミが降りてくる。
  カズミ、じっと春男の方を怒った表情で
  見つめる。
カズミ「へえ、俺を捨ててよろしくやってた
 んだ」
  春男、不安な表情になってキョロキョロ
  とあたりを見回す。
  春男、カズミを見つけ、おびえた表情に
  なり、
春男「どういう意味だよ」
  友子、驚いて、
友子「どういう意味って?……あなた、どう
 かしたの?」
  友子に答えずじっとカズミの方を見つめ
  る春男。
  友子、春男の視線を追ってカズミの方を
  見つめるが、何も見えないので怪訝な表
  情になる。
  カズミ、ゆっくり口を開く。
カズミ「そうさ、僕はカズミだよ。忘れたと
 は言わさないよ」
  友子、春男の様子に不安になり、
友子「ねえ、あなたどうしたの?」
春男「友子、……」
  春男、カズミの方を指さしかけるがやめ
  る。
春男「もう、出ようか」
  春男、レシートを握り、席をたつ。
  春男の前には食べかけの食事。
友子「ねえ、本当にどうしたのよ」
  友子、慌てて春男を追いかける。

○ 繁華街
  足早に歩く春男。
  そのあとを必死に追いかける友子。
  カズミ、友子の後ろから空中を飛んでつ
  いていく。
春男のN「その頃から俺にとってカズミは幻
 覚以上の意味を持つようになった」

○ 春男の家・風呂
  湯船に入っている春男。
  湯船の端に座って嬉しそうに春男を見つ
  めるカズミ。
春男のN「正直に白状すると、もう、カズミ
 のことは、いや、靖子のことさえ忘れかけ
 ていた」

○ 大学のキャンパス(春男の回想)
  改築されたばかりの校舎と古めかしい門
  柱とがアンバランスに見える大学の遠景。
  門をはさんで立て看が並んでいる。
  春男、数人の学生と一緒に大学の門の近
  くでヘルメットをかぶってビラを配って
  いる。
  その脇を靖子が通りかかる。
  春男、抱えていたビラを置いて靖子を追
  いかける。
  風に舞うビラ。
春男「(思い切って)あの、文学部の香川さ
 んですね?」
  靖子、振り返る。

○ 喫茶店(春男の回想)
  小さな喫茶店、学生で満席の状態。
  いちばん隅の小さなテーブルをはさんで、
  春男と靖子が話している。
靖子「へえ、そんなころから私に眼をつけて
 たの?」
春男「そんな言い方ないだろ」
靖子「じゃ、松本書店でここの大学の赤本を
 買ったの、ひょっとして岡林君?」
春男「そうだけど」
靖子「わざわざあそこまで買いにいったのよ。
 ここの大学の赤本ってあまり売ってないじゃ
 ない。あそこにあったからお金もらって買
 いにいったらないんだもん」
  靖子の春男を見上げる笑顔のクローズアッ
  プ。
春男のN「あのさわやかな靖子の笑顔を正視
 することが出来ない。たとえ、思い出の中
 でさえ」

○ 春男の寝室
  春男、ベッドに仰向けに寝ている
  その見つめている中空にカズミが現れる。
春男「おまえ、なんで今ごろ出てきたんだ?」
カズミ「ずっと、探してたんだ」
春男「探さなくていいだろ」
カズミ「他人みたいに言わないでくれよ」
春男「今日は寝かしてくれよ」
カズミ「勝手に寝ればいいじゃないか」
春男「おまえが居たんじゃ寝れないんだよ」
  春男、カズミを捕まえようとベッドの上
  で立ち上がり、カズミを抱えるように手
  を上に伸ばす。
  しかし、カズミは際限なく上に逃げてい
  く。
  春男、ジャンプして天井に手をつけて、
  カズミを捕まえようとするが、カズミ、
  天井を抜けて逃げる。
  友子、台所から覗く。
友子「何やってるのよ、本当に。……やっぱ
 りストレスがたまってるのよ、ゆっくり寝
 ればいいわ。私、今日は向こうの部屋で寝
 るから」
  春男、ベッドの上に立ったまま呆然と友
  子を見送る。
春男のN「友子には言えない、絶対に言えな
 い」

○  春男の寝室
  春男、一人でベッドに仰向けに寝ている。
  視線の先には中空で眠っているカズミ。
  春男、ベッドから起き出してサイドテー
  ブルの棚からブランデーを取り出し、ボ
  トルの口から直接一口飲む。
春男「(入り口の方に歩きながら)友子、友
 子」
  春男、入り口の戸に手をかけるが、そこ
  に座り込んでしまう。
  春男、座り込んだままブランデーをもう
  一口飲む。
  相変わらず、その視線の先にはカズミ。

○ 春男の家・玄関
  出社しようとしている春男。
  寝不足が一目で分かる春男の表情。
  友子、弁当の包を持って出てくる。
友子「体の調子悪いようだから、弁当作った
 の。良かったら持っていって」
春男「(受け取りながら)ありがとう」

○ 電車の中
  春男、ラッシュの中かろうじて吊革を握
  る。
  春男、もう片方の手で弁当の包をつぶさ
  れないように体の前にもってくる。
春男のN「やはり、今の俺には友子が一番だ。
 こんな幸せな生活を壊す訳にはいかない」
  春男の頭上にカズミが現れる。
  カズミ、うれしそうな表情である。
  春男、それに気がつき、苦々しく上を見
  上げる。

○ 春男のオフィス
  春男、資料を横に置き、ラップトップ型
  のワープロを打っている。
  春男、資料を持って一旦席をたつ。
  空中に浮いていたカズミ、その間にワー
  プロのキーボードの上に降りてくる。
  春男、別の資料を持って、ワープロの前
  に戻ると、呆然とワープロを見つめてい
  る。
  春男の横を若い女子社員が通りかかる。
女子社員「岡林さん、どうしたんですか?」
  春男、慌てて女子社員の方を振り返り、
春男「いいや、なんでもないんだ」
  春男、席につき、キーボードの上のカズ
  ミをじっと見る。
  女子社員が戻ってくる。
女子社員「ほんとに大丈夫ですか?岡林さん。
 何か変ですよ?」
春男「ああ」
  春男、ワープロの方に手を伸ばそうとす
  るが、カズミに触れそうになると、慌て
  て手を引っ込める。
  女子社員、それを見て気持ち悪そうに春
  男から遠ざかる。

○ 郊外の駅
  春男、人混みに押されて改札口を出る。
  春男のすぐ頭上にはカズミ。
  春男、その人混みと一緒にバス停の方に
  向かおうとするが、急に駅前の小さな焼
  き鳥屋に入る。少し遅れてカズミが急い
  で春男が閉めた戸を通り抜けて入ってい
  く。

○ 焼き鳥屋
  カウンターだけの狭い店。
  客も春男一人である。
  春男の前にはあまり口をつけていないコッ
  プ酒が一杯置かれている。
  コップの横にはカズミがきちんと座って
  いる。
春男「(カズミに向かって)おまえ、いつま
 で俺にこうやってつきまとうんだ?」
カズミ「迷惑そうに言わなくてもいいじゃな
 いか」
春男「迷惑なんだ」
カズミ「そうか」
春男「わかってくれるか?」
カズミ「分かる気もするな。子供っていって
 も実際に顔を見るのは初めてなんだし」
春男「そう、そうなんだ」
カズミ「それにこんな体だし」
春男「(慌てて首を横にふり)そんなことは
 関係ないんだ。ただ……」
  焼き鳥屋の主人、春男の様子を不思議そ
  うに見ている。
春男「悪いんだが、今の生活を壊したくない
 んだ」
  カズミ、眼を閉じる。
カズミ「(眼をしっかりと見開いて)わかっ
 たよ。僕を見てると思い出すんだ」
春男「ああ、そうなんだ」
カズミ「分かったよ、……ただ一つだけお願
 いがあるんだ」
春男「なんだ、なんでも言ってごらん」
カズミ「……ママに会わせて欲しいんだ」
春男「ママにか」
カズミ「せっかく、こうやってパパにやっと
 会えたんだ。ママにも会いたいよ」
春男「そうだろうな。会いたいだろうな」
カズミ「会わせてくれるの?」
春男「それで消えてくれるのなら」
カズミ「うん、消えれるかもしれない」

○ 春男の家の前・夜
  春男、重い足どりで帰りつく。
  頭上にはうれしそうな表情のカズミ。

○ 六畳の下宿部屋(春男の回想)
  部屋の隅の黒いヘルメットとよごれたタ
  オル。明らかにデモ用である。
  古い木造の部屋、窓には薄いカーテンが
  かけられている。狭い部屋の一方の壁面
  には、政治学、経済学等の本が積み重ね
  られている。
  靖子、食事を机の上に運びながら、
靖子「今日、病院、行ってきたの」
春男「ひょっとして?」
靖子「そう」
春男「やっと出来たんだ」
靖子「確信はあったんだけど。言われると、
  少し不安になっちゃった」
春男「俺に任せとけよ。靖子は何も心配する
 ことはない」
靖子「じゃ」
春男「ああ、ずっと靖子から離れない。俺が
 働くから靖子も大学だけは出るんだ」
靖子「ほんとうね?」
春男「ようし、名前はカズミにしよう。タカ
 ハシカズミのカズミだ」
靖子「男の子とは限らないのよ。それに春男
 もお父さんなんだからこっち(部屋の隅の
 ヘルメットを指さし)の方はいい加減にし
 てよ」
春男「わかってるさ。それより、女の子でも
 いいじゃないか。カズミなら」
靖子「そうね、カズミにしましょう」
  靖子、春男に抱きつく。
春男「さあ、祝杯だ」
靖子「私、もう飲まないわよ」
春男「今日は飲めよ」
  春男、ズボンのポケットの硬貨を確かめ
  ながら、外に出ていく。
  靖子、笑って見送ると食事の用意を続け
  る。

○ 春男の寝室
  一人でベッドに横になっている春男。
  視線の先には中空で穏やかな表情で眠っ
  ているカズミ。

○ 春男の下宿・早朝(回想)
  春男、ヘルメットを脇に抱えて帰ってく
  る。
  部屋の片隅で膝を抱えている靖子、春男
  を見る。
春男「寝てなかったのか?」
靖子「眠れるわけないでしょ。大内君も心配
 してたわよ。今度のデモでは何人か必ずひっ
 ぱられるって」
春男「あいつ、いらんこと言いやがって」
靖子「いらんことじゃないわよ、春男、人の
 親になるのよ!少しは考えてよ」
春男「どういう意味だ?俺にみんなを裏切れっ
 ていうのか」
靖子「そのみんなと私とどっちが大事なのよ
 ?」
  靖子、立ち上がって春男を睨みつける。
  春男、玄関口にたったまま、
春男「分かった。分かったよ」
  春男、そろそろと靴を脱いで上にあがる。
  春男、机の引き出しをあけ、奥の方から
  薬瓶を取り出す。
  その瓶を靖子に手渡しながら、
春男「疲れたときには、これを飲むといい。
 ゆっくり休めるから」
靖子「これ、何?」
春男「医学部の竹井に分けてもらったんだ。
 俺もときどき飲んでる」
靖子「大丈夫なの?」
春男「心配ないよ」
  靖子、瓶から錠剤を3粒取り出し、飲む。

○ 六畳の下宿部屋(春男の回想)
  調理場には、夕食の片付けが途中になっ
  ている。
  部屋の中央で春男と靖子が立ったまま向
  かい合っている。
  少し、お腹が目立つようになってきた靖
  子、険しい表情で春男を見つめている。
靖子「両手がないからといって、不幸とは限
 らないでしょ」
春男「両手がないだけじゃないかも知れない
 んだ。全体的に発育不全だということらし
 くて。知恵遅れだってあるかも知れないっ
 て言われてるんだ」
靖子「だからといって、カズミの命を奪う権
 利は私たちにはないはずよ」
  春男、靖子から眼をそらす。
春男「自信がないんだ」
靖子「自信があるもないもないでしょ。もう
 あなたの子どもがここにいるのよ」
  靖子、後ろから春男の肩をつかみ、靖子
  の方に向かせる。
靖子「(急におびえたように小声になって)
 ねえ、春男、あの私にくれた薬なんだった
 の?確かによく眠れるようになったけど」
  二人の写真の横に置かれた薬瓶。
春男「とにかく産むのはやめろ。そんな子ど
 もが生まれても子どものためにもならない。
 わかるだろ?」
靖子「その子どもを守って幸せにするのが、
 私たちの責任じゃない」
春男「とにかく、俺はごめんだ」
  春男、ヘルメットを置き、傍らのバッグ
  を手に外に出ていく。
靖子「どこへ行くの?」
  靖子、不安な表情で見ていたが、慌てて
  春男を追いかけようと玄関に向かって走
  るが、玄関の戸にすがりつくように倒れ
  込んでしまう。
  靖子の眼に涙が浮かぶ。
春男のN「あの日から靖子には会っていない」

○ 郊外の住宅街
  春男、重い足どりで歩いている。
  カズミも少し遅れながら付いていく。
  カズミは嬉しそうである。

○ 香川家の玄関
  大きな家。
  門構えも立派である。
  春男、ためらいながらもチャイムを押す。
  何の応答もないので、何回もチャイムを
  押す春男。
  そんな春男に隣家の中年の主婦がエプロ
  ンを外しながら近づいてくる。
主婦「そこ、空き家ですよ」
  春男、驚いて振り返る。
春男「空き家?」
主婦「ええ」
春男「あの、七十才くらいの女の方が住んで
 いたのでは?」
主婦「ええ、去年病気で亡くなられましてね」
春男「あの、娘さんは?」
主婦「ご存知ないのですか?……」
春男「(怪訝そうに)どうかしたんですか」
主婦「お話していいものかどうか……」
  春男、主婦の方を向く。
春男「(訴えかけるように)教えて下さい」
主婦「あの、香川さんとはどういうお知り合
 いですか」
春男「ええ、遠縁にあたる者ですけど」
  主婦、少し安心した顔つきになる。
主婦「そう、そうですか。ずっと入院してる
 んですよ」
春男「どこの病院ですか?」
主婦「……(思い切って)精神病院ですよ。
 かわいそうに。母親の死に目にもあえなかっ
 たんですよ」
春男「だから、どこの病院なんですか?」
主婦「行っても会える状態かどうか」
春男「かまいません」
主婦「そうですか。たしか、あの古池病院と
 聞いてますが。靖子ちゃんも寂しい思いし
 てると思うから。行ってやって下さい」
春男「分かりました。ありがとうございまし
 た」
主婦「では……」
  春男、背を向けた主婦に向かって、
春男「あの……」
  主婦、振り返り、
主婦「まだ何か?」
春男「その靖子さんですが、いつごろから入
 院しているんですか?」
主婦「詳しいことは聞いてないんですが、学
 生時代からのようですよ」
  春男、主婦に挨拶もせず去っていく。
  カズミ、その様子を遠くから見つめてい
  る。

○ 古池精神病院・入り口
  《古池精神病院》という看板
  大きくきれいな病棟。
  春男、ゆっくりと入っていく。
  カズミは居ない。

○ 病室の前
  《香川靖子》という名札。
  大きな扉。
  春男、ためらっていたが意を決してノッ
  クする。

○ 靖子の病室
  陽がいっぱい入る明るい感じの個室。
  靖子の机の上には刺繍途中のハンカチと
  刺繍の道具がある。
  靖子、微笑んで春男を見ている。
  春男、そんな靖子を見れず、窓から外を
  見ている。
靖子「どうして、私の方を見ないの?」
春男「……」
靖子「私はあなたに会えてうれしい」
  春男、思わず靖子の方を振り向き、
春男「うれしい?」
靖子「ええ、ずっと会いたかった」
春男「君をこんなにした男だぞ」
靖子「私はこれでよかったのよ」
春男「……」
靖子「あなたが花を持ってくるなんて」
  靖子、サイドテーブルの花瓶にさされた
  花束をじっと見つめる。
春男「おかしいか?」
靖子「うん」
春男「病院に行くときは花を持っていくと覚
 え込んでしまったんだ」
靖子「春男さん、そんなこと言わなかったの
 にね」
春男「もう、就職して十二年になるからね」
靖子「ここからみる風景は何も変わらないわ」
春男「あれからすぐに結婚してね」
靖子「良かったわね」
春男「ありがとう」
靖子「お子さんは?」
春男「こわくて、作れないんだ」
靖子「そうでしょうね」
  靖子、花束からいちばん大きな百合の花
  を取り、花弁をむしり出す。
  春男、じっと見つめる。
春男のN「こわくて子供が作れなかったとい
 うのは嘘だ。この期におよんでまで俺は靖
 子に嘘をつき続けている」

○ 電車の中
  比較的すいている車内
  春男、疲れはてた表情でじっと中空を見
  ている。
  そこに、カズミが現れる。
春男「どうして来なかったんだ。ママだぞ」
カズミ「行ってたよ」
春男「居なかったじゃないか」
カズミ「俺の方を見ようとしなかったからさ。
 俺はいつでもパパのそばにいるよ」

○ 春男の家・DK
  春男、夕食の支度をしている友子の後ろ
  姿を見ながら、手酌でビールを飲んでい
  る。
  友子、食事の支度の手を休めず、
友子「今日、パパから電話があってね」
春男「お父さんから?」
友子「あなた、何か大きなミスしたの?」
春男「大したことないよ」
友子「そう、それならいいんだけど。パパの
 ほうでも問題になってるって言うから」
春男「(語気を荒げて)そんなこと関係ない
 だろ。おまえには」
  友子、驚いて春男の方を振り返る。
友子「そんな言い方ないんじゃない。心配し
 てるんじゃない」
春男「お父さんのことか?お父さんには迷惑
 かけないよ」
友子「パパなんか関係ないわよ。あなた、ど
 うかしたの?」
  春男、ビール瓶とグラスを持って寝室の
  方へ行く。
友子「もうすぐ出来るわよ」

○ 春男の寝室
  春男、ベッド脇の机の引き出しの奥から
  経済学の本を取り出し、開く。
  間にはさんであった古い写真をなつかし
  そうにみる春男。
  古い下宿屋をバックにした春男と靖子。

○ 春男のオフィス
  春男、ぼっと机に座っている。肩口に乗っ
  ているカズミ。
  課長が手招きをしているが、全く気がつ
  かない。
課長「岡林君!」
  春男、ゆっくり課長の方を向く。
課長「早く来んか!」
  春男、ゆっくりと課長の席に向かう。
課長「君はいったい何をしに会社に来てるの
 かね。先日の米粉の買い付けの話、全く進
 んでないって言うじゃないか。大事な商談
 だから君に任せたんだ。今からでもいい、
 先方にプッシュをかけて」
春男「誰か、他の人に担当を変わっていただ
 けませんか」
課長「君、自分が何を言っているのか分かっ
 てるのか?」
  春男、課長の方を振り返らず、自分の席
  に帰る。
春男「(カズミに小声で)本当に毎日なにし
 てるんだろうな?」

○ 靖子の病室
  スーツ姿の春男、スーパーで買ってきた
  らしい出来合いの肉じゃがを小鉢にあけ、
  靖子の前に置く。
  肩口にはカズミ。
春男「靖子、覚えてるかな。一番最初に俺に
 作ってくれたのが肉じゃが」
靖子「そうだった」
春男「あのときはうまいうまいって食べたけ
 ど。本当は食べられたもんじゃなかった」
  靖子、肉じゃがを頬張る。
靖子「おいしい」
  春男、複雑な表情で靖子をじっと見てい
  る。
春男「なんか欲しいものはないか?」
靖子「別に、本も読まないように言われてる
 し」
春男「そうか」
靖子「気にする事ないのよ。春男さんのせい
 ばかりじゃないんだから」
  春男、首を振りながら、
春男「そんなんじゃないさ。俺が勝手に来て
 るんだ。いやだったらそう言ってくれよ」
靖子「いや、春男さんが来てくれるようになっ
 てから、気分が明るいの。感謝してるのよ」
春男「それだったらいいんだけど」
  靖子、小鉢を脇にどける。
春男「もう、いいのか?」
靖子「うん、ごちそうさま」
春男「じゃ、洗ってくる」
靖子「いや、置いておいて」
春男「いいよ」
  春男、小鉢を持って出ていく。
  靖子、笑って見送る。

○ 郊外の喫茶店
  広く静かな店。
  春男、隅の席でコーヒーを飲んでいる。
  肩口には、カズミ。
春男「ママに会えてよかったな」
カズミ「パパとママ、本当に仲がいいんだ」
春男「昔はな」
カズミ「今もじゃないか」
春男「おまえには分からないかも知れないが、
 そんなんじゃないんだ」
カズミ「子供に嘘はつかない方がいいよ」

○ 春男の家・寝室
  友子、春男のベッドのサイドテーブルを
  あける。
  いちばん上には、学生時代の靖子の写真。
  友子、その写真を手に取って考え込む。

○ 春男の家・DK
  友子、窓から外を見ている。
  春男、扉をあけて入ってくる。
友子「おかえりなさい」
春男「ああ」
友子「どこに行ってきたの?」
春男「だから、パチンコさ」
友子「そんな格好で?」
春男「これしかなかったんだよ」
友子「そう」
春男「なんか言いたいことがあるのか?」
友子「いや、石浜さんの奥さんがね、あなた
 に会ったんだって、古池岡で。あんなとこ
 ろ病院以外何もないじゃない。なにしてる
 んだろうと思って」
  春男、うろたえて、友子から眼をそらす。
友子「いや、私はいいのよ。何をしてても。
 あなたは私と結婚したんじゃない。私のパ
 パの名刺と結婚したのよね。知ってるわ。
 有名な話だったものね。大学の中では。み
 んな知ってたわ。それならそれでいい。そ
 う思って、ずっとあなたと生活してきたん
 じゃない。だったら、もっとしっかり仕事
 してよ。今日もパパから電話があって、様
 子聞かれて困ったんだから」
春男「なんだ、その言い方は!いつもいつも
 パパ、パパって」
  春男、玄関の方に出ていく。
  カズミ、壁をすりぬけてついていく。

○ 酒屋の前
  春男、自動販売機でビールを買い、飲む。
  カズミ、自動販売機の上に座り、じっと
  春男を見ている。
春男「(カズミに)もう一回やり直そうか。
 なあ、俺は本当に臆病者だっただけだもん
 な。今度こそ、おまえと靖子を守ってみせ
 るぞ」
カズミ「うれしい」
春男「任せとけ」

○ 春男の寝室
  春男、机で封書にペンを走らせている。
  封書の表に辞表と書く。
友子の声「もう、私寝るわよ」
春男「ああ、おやすみ」

○ 春男の会社・重役室
  友子の父の高崎常務、書類に眼を通して
  いる。
  春男、入ってくる。
春男「お呼びでしょうか?」
高崎「(春男の辞表を手に)これは何かね?」
春男「ちょっと、考えがありまして」
高崎「さっき、友子に電話したんだが、まっ
 たく聞いてないと言ってたぞ」
春男「はあ」
高崎「友子のことは、どうしてくれるのかね
 ?」
春男「……」
高崎「とにかく、これは私が預かっておく。
 君はもっとしっかりしていると思ったんだ
 がね」
春男「いろいろとお世話になりました」
  春男、高崎に一礼をして部屋を出ていく。

○ 春男の家・DK
  春男、炒めものをのろのろと食べている。
友子「びっくりしたわよ、お父さんから電話
 もらって。このごろ元気がないと思ってた
 ら、やっぱりね。会社でなんかあったんで
 しょう。いいのよ、私は。あなたに無理は
 して欲しくありませんからね。パパのこと
 も気にしなくていいわ。うまく言うから。
 ね、どうして、会社辞めるの?私には言っ
 てよ」
  春男、友子の眼を避けて茶を飲んで立ち
  上がる。
友子「ねえ、あなた、どうしたの?私には言
 えないことなの?」
  春男、ゆっくり寝室の方に行く。
  カズミ、うれしそうに春男の後を追う。
友子「ねえ、なんなのよ!」

○ 春男の寝室
  春男、ボストンバッグに服を詰めている。
  衣装タンスの上にカズミ。
春男「(カズミに)一緒に行こう、な」
  友子、覗く。
友子「なにしてるの」
春男「この家を建てるときは、ずいぶんお父
 さんに出してもらったからな。俺が出てい
 くよ」
友子「どういうことなの。急に」
春男「おちついたらゆっくり話す」
  春男、ボストンバッグを手にゆっくり部
  屋から出ていく。
  友子、追いかけようとするが、思いとど
  まる。

○ 小さな不動産屋
  狭い部屋の中に事務机と応接セット。
  奥に置かれている応接セットに社員と向
  かい合わせに春男が座っている。
  カズミはいない。
春男「(眼の前に出された書類を見ながら)
 ここは周りは静かですか?」
社員「と、申しますと?」
春男「雑音はありますか?」
社員「ええ、静かなところですけど……この
 前の道はかなり交通量がありますよ」
春男「それはだめです!」
社員「そう言われましても、この辺りの物件
 でまったく騒音のないところと言われまし
 ても」
春男「そうですか。ありがとうございました」
  春男、すばやくすばやく立ち上がり出て
  いく。

○ 高台のマンション
  周囲を畑に囲まれた新築のマンションの
  外観。
  春男、不動産屋の社員に続いて、不動産
  屋の車から降りてくる。
  春男、満足そうに見上げる。

○ マンションの一室
  2DKのマンション。
  奥の広い部屋にダブルの大きなベッドが
  置いてあり、大きな窓には分厚いカーテ
  ンが掛けられている。
  春男、その部屋を満足そうに眺める。
  春男、隣の狭い部屋に行き、小さく粗末
  なベッドに寝転がる。
  春男が見つめる天井にカズミが現れる。
春男「もう、俺にあるのは、ママとカズミと、
 ここのローンだけだな」
  カズミ、嬉しそうに天井を飛び回る。

○ 春男のマンション
  電気をつけずにベッドに寝ている春男。
  床の上の電話がなる。
  春男、受話器を取る。
高崎の声「春男くん、申し訳なかったのだが、
 いろいろと調べさせてもらったよ。娘のた
 めだ。許してくれ。君は昔の女性のところ
 に行っていたんだな。それもひどい神経症
 で長期入院中だって言うじゃないか。家庭
 も仕事も捨てて。そんな価値のある女性な
 のか?……まあ、とにかく友子は家に引き
 取る。いいな。詳しい話は弁護士を通して
 いくと思うから」
春男「分かりました、宜しくお願いします」
  春男、受話器を置き、ため息をつく。

○ 古池精神病院の中庭
  患者たちが庭仕事をしている間を抜けて、
  春男と靖子が歩いている。
  少し遅れてカズミが飛んでいる。
春男「退院は出来ない?」
靖子「いや、しないの。私にはここが一番」
  春男、考え込んで、立ち止まる。
  靖子、振り向き、
靖子「どうしたの?」
  春男、靖子のところまでゆっくりと歩く。
  春男、思い切って、
春男「カズミ、覚えてるだろ?」
靖子「カズミ?」
春男「忘れた?」
靖子「忘れられる訳ないじゃない」
春男「居るんだよ」
靖子「本当?会いたい」
春男「だろ」
靖子「うん」
  春男、中空を指さす。
  カズミ、微笑んでその様子を見ている。
  靖子、顔をしかめる。
靖子「どこに居るのよ、会わせてよ」
春男「見えないのか。ほら、そこに浮いてる
 じゃないか。子供のままで」
  靖子、中空と春男を交互に見つめながら
  不安な表情に変わっていく。
  春男、あわてて、
春男「(カズミを指さしながら)そこにいる
 じゃないか。そこ。ちゃんと両手がなくて」
  靖子、春男をにらみつけ、
靖子「両手がないカズミなんて、いやよ。直
 して、春男さん、直してよ。ちゃんと手を
 つけてよ」
春男「直さなくても、カズミはうれしそうだ」
靖子「そんなわけないじゃない!」
春男「本当だよ」
靖子「だったらどうして、あの時に産ませて
 くれなかったのよ」
  靖子、激しく体が震え出す
  春男、靖子の肩に手を置き、強く抑える
  が、震えは止まらない。
春男「分かった、俺が悪かった。部屋に帰ろ
 う、な」
  春男、靖子の肩を抱きかかえて、病棟の
  方に戻る。

○ 古池精神病院・門
    春男、何度も振り返りながら、遠ざ
  かっていく。

○ 春男のマンション
  春男、ベッドの上で瓶から直接焼酎を飲
  みながら、誰も居ない隣の部屋を見つめ
  る。
  カズミ、隣の部屋の中空から春男をじっ
  と見ている。
カズミ「なに考えてるの?ママのこと?」
春男「ああ、ママ本当に来てくれるのかな?」
カズミ「心配ないよ」
春男「どうしてそんなことが言えるんだ」
カズミ「信じてなきゃだめじゃないか」
春男「そうだな」
  春男、カズミの方を向き直って、
春男「カズミ、この間ママの病院に行ったと
 きに居たよな?」
カズミ「居たよ」
春男「どうしてママにはカズミが見えなかっ
 たんだ」
カズミ「僕はパパにしか見えないんだ」
春男「なぜなんだ?」
カズミ「ママは僕に何も悪いことしていない
 から。ママに見えるようにはなれないんだ」
春男「よく分からないな」
カズミ「分からなくていいんだよ。いや、こ
 んなこと分からないほうがいい……僕はパ
 パの側になるべく長く居られればそれでい
 いんだ」
  カズミが見つめると春男はベッドの上で
  眠っている。

○ あるアパートの前
  春男、宅配便のトラックから降りて、大
  きな荷物をかつぐ。
  春男、荷物をかついだままアパートの狭
  い階段を上る。
  春男の顔から汗が吹き出す。

○ 春男のマンション
  春男、小さなキッチンに立ち、慣れぬ手
  付きで野菜を切る。
  カズミ、椅子に座って、後ろからその様
  子をうれしそうに見ている。
  カズミの眼の前のテーブルには、3人分
  の食器が並べられている。

○ 春男のマンションの前
  友子、険しい表情でドアをノックする。

○ 春男のマンション
  ベッドに横になりカズミの顔をじっと見
  ていた春男、玄関をたたく音にゆっくり
  起き上がり、玄関を開ける。
  開けたすぐのところに友子が立っている。
  驚く春男。
友子「入っていい?」
春男「ああ」
  友子、ゆっくり部屋の中に入る。
  友子、部屋を見回し、
友子「きれいに住んでるのね」
  春男、黙って友子を見ている。
友子「この間、竹井さんという人から電話が
 あって、やっとあなたに何があったのか分
 かったわ」
  春男、無表情に、
春男「そうか」
友子「その香川さんという人、結局は退院し
 ないんでしょ」
春男「ああ、今のところは」
友子「で、生活の方、大丈夫なの?」
春男「大丈夫だよ」
  春男、友子に椅子をすすめる。
  友子、自分で椅子を取り、座る。
  春男、コップに水を注ぎ、友子の前に置
  き、自分もコップに水を注ぎ、飲み干す。
  友子、そのコップを取り、半分くらい飲
  む。
春男「大丈夫さ。それより、君は?」
友子「家にいるわよ」
春男「ひどい男だって言ってるだろうな」
友子「気にすることないわよ」
  友子、きれいに整理されたままの隣の部
  屋をのぞき込む。
友子「掃除も洗濯も全部あなたがやってるの
 ?」
春男「そりゃそうさ」
友子「(笑いながら)やればできるんじゃな
 い」
春男「そりゃできるさ。これでも学生時代は
 ……」
  春男、慌てて眼をそらす。
友子「気にしなくていいのよ。その香川さん
 の力になってあげて」
  春男、友子をじっと見つめる。
春男「友子、ごめんな。昔、俺は靖子、香川
 さんにひどい仕打ちをしてしまったんだ。
 今からでも罪滅ぼしをしないと。俺は死ね
 ないんだ。救いようのない人間のまま終わ
 りたくはない。わがままは承知している。
 ほんとにごめん……」
友子「いいのよ。ほんとにいいの、家はあの
 ままにしてますから。気長に待ってます」
春男「……」
友子「じゃ、何でも困ったことがあったら言っ
 てね」
  友子、流しにコップを洗いに行こうとす
  る。
春男「いいよ、そのままにしておいて」
友子「それくらいするわよ」
  友子、流しでコップを洗う。
友子「元気でね」
春男「君も」
  友子、出ていく。
  春男、笑って見送る。
  春男、振り返るとそこに寂しそうな表情
  のカズミがじっと春男の方を見ている。
カズミ「家に帰るんだったら帰ってしまえば」
春男「ばかなこと言うんじゃない。お前もマ
 マも絶対に捨てない。捨てるもんか」

○ 春男のマンションの前
  友子、がっくりと肩を落とし、ため息を
  つきながら歩いていく。

○ 古池病院院長室
  広い部屋の中央にある応接セットの春男
  の向かいに白衣を着た初老の院長が座っ
  ている。
  カズミはいない。
院長「香川さんを引き取りたいと言うのは?」
春男「無理でしょうか?」
院長「いや、同意入院ですし、香川さんさえ
 承知すれば無理なことではありません」
春男「じゃ、先生からもお口添えを……」
院長「ええ、ただ……」
春男「どうしたのですか?」
院長「後見人になっている従姉妹の方は退院
 に同意してくれたんだが、当の香川さんが
 いやだと言っているんですよ」
春男「そんなこと……?靖子が」
院長「先日もお話しましたが、もう香川さん
 は治療の必要はありません。ただ、退院し
 たくないという患者さんを無理矢理退院さ
 せることも私にはできないのです」
春男「ええ、しかし、どうして退院したくな
 いんでしょう?」
院長「恐いんじゃないんですか。まあどうし
 ても引き取りたいと言うのでしたら気長に
 説得してみたらどうでしょう。ただ、退院
 することが香川さんにとって幸せなことか
 どうか、わかりませんけど」
春男「……」

○ 靖子の病室の前
  春男、黙って通り過ぎる。

○ 靖子の病室
  靖子、じっと大きな窓から外を見つめて
  いる。
  その視界の中に去って行く春男の後ろ姿。
  靖子、思わずベッドから降りて、窓の方
  に歩み寄り、窓をあけようとするが窓は
  開かない。
  靖子、その後ろ姿を見送るとベッドに戻
  り、サイドテーブルの上の刺繍途中のハ
  ンカチを手に取る。
  そのハンカチの片隅に、春男の文字が刺
  繍されている。

○ 春男のマンション
  春男、ベッドに横になってラジオから流
  れてくる音楽を聞いている。
  カズミ、中空に現れる。
春男「カズミ、いつまでもパパのそばにいて
 くれるよな。きっとママも来てくれるから」
カズミ「……、パパ、僕は死んでるんだ。い
 つまでも、ここにいることは出来ないよ」
春男「どういうことだ?」
カズミ「パパが一生懸命になってママや僕の
 ことを考えてくれただろ」
春男「だけど、ママは来てくれなかった」
カズミ「それはいいんだよ、パパの気持ちが
 僕は嬉しかった」
春男「そうか」
カズミ「だけど、パパ……パパがそう考えれ
 ば考えるほど僕がここに居る意味がなくなっ
 てくる。ここには居れなくなってくるんだ
 よ」
春男「どういうことだ?分かるように説明し
 てくれよ」
カズミ「パパを恨んでいたからずっとこの世
 の中に残っていれたんだ。だから、……パ
 パと離れたくなかったから恨み続けようと
 思ったけど。もうだめだよ。恨めない。こ
 んなに思ってくれたら恨めないよ」
  無理に笑おうとするカズミの姿がどんど
  ん薄くなっていく。
  春男、ベッドから立ち上がり、カズミの
  方に手を伸ばして、
春男「どういうことだ?カズミ、どこへいく
 んだ?」
カズミ「ありがとう、パパ。本当に嬉しかっ
 たよ」
春男「パパも一緒に連れていってくれよ」
カズミ「パパはまだ来れないよ。これだけは
 どうしようもないことなんだ」
  カズミ、消えてしまう。
  春男、ベッドの上にがっくり膝をつく。

○ 春男のマンション
  セーターを着た春男、二人分の食事を机
  の上に並べている。

○ 大都市の雑踏
  出勤途中のサラリーマンの一群が交差点
  を渡っている。
  空中には無数の嬰児が浮かんでいる。
  サラリーマンの一人がそれに気づき、立
  ち止まり空を見上げる。

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